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闇夜(やみよ)()く、あの(とり)(よう)に。

 

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「キタノノバト? 何、ソレ」
 聞きなれない固有名詞に、少年は思わず声をあげる。
「ちょっと、……(つぐみ) 、まさか、本当に知らないの?」
 さも呆れたといった調子で、薫子(かおるこ)は鶫を覗きこんだ。
「……薫子さん、子供扱いしないでよね」
 鶫は頬を膨らませささやかながら抵抗を試みるが、小学生並の童顔故かはたまた長年の上下関係故か、薫子は全く気にした様子はない。
 それどころか鶫を見下すかのように、オールドローズのルージュをまっすぐに引いた形の良い口唇で不敵に微笑んで見せた。
「あら、ごめんなさい?」
 こんなときの薫子に何を言っても無駄だ。
 鶫は自分の情けなさと不甲斐なさとを呪った。
 薫子が白衣をさっと翻し教卓の上へ軽やかに座った瞬間、カルバン・クラインのコントラディクションが仄かに香り、少年の鼻腔を(くすぐ)る。フレッシュで現代的なフレーバーでありながら何処かクラシックなところのあるこの香水は、なるほど薫子のイメージによく似合っていた。確か、その名の由来は英語で『矛盾』という言葉からきているのではなかったであろうか。そんなことに思いを馳せ英単語のスペルを思い出そうとしている鶫を見て、薫子は意味ありげな笑みを口に浮かべ「香りはね、人の思いを蘇らせるのよ」と独りごちた。白衣の内に着ているだろうキャミソールの更に内に潜んだ下着の黒レースがちらりと覗き、少年は気まずさと恥じらいに頬を染めて俯いた。
 薫子はそんな鶫の様子にはお構いなしに、ただただ微笑んでいる。
 悠然と佇む彼女はとても美しかった。
 此処――入学式から僅か
4日目の11の教室には鶫と薫子のふたり以外は誰も居ない。幾ら顔見知りとはいえ、放課後の教室に妙齢の保健医というシチュエーションはなかなかそそるものがあるのだが、そんな鶫の意図を知ってか知らずか彼女は素知らぬ顔をしていた。
 鶫は気まずい雰囲気を打破するかのように早口でまくしたてる。
「それより、薫子さん。キタノノバトって何なんだよ」
「小説家よ。結構売れっ子なんだけど、鶫は……知ってる筈ないわね。何たって活字読むのが苦手で、高校入試も現代文で第一志望に落ちたくらいだもの、ね」
「薫子さん」
 あまり触れられたくない過去に、鶫はじと目で薫子を睨みつける。
 そうなのだ。
 鶫は中学時分、ずっと都内の有名進学校を志望していた。大型の私立中学でさえトップから数人しか合格できないという曰く付きの高校である。鶫自身がつけた自己採点の結果が正しかったならば、数学や英語の得点はそれこそ全受験生中でもかなり上の方であったに違いない。社会や理科もそれなりに出来た。しかし、問題は本来ならば受験生の格好の得点源になるであろう国語にあった。洒落にもならないのだが、その時の国語の記述問題はたったの
2割程の得点しか取れなかった。しかもその合っていた問題の殆どが記号問題や漢字の問題であったのだから。
 薫子は肩を竦め、教卓から躰を浮かせる。
「あら、ごめんなさいね。本題に戻るわ。……北野(きたの)野鳩(のばと)
23年前急に現れた新人作家よ。今時珍しく、純文学で売ってるの。それでその北野野鳩がウチの高校出身らしくて、……北野野鳩に憧れてウチの航行受ける作家志望のコが多いの。作家育成の特別カリキュラムもあるし、ね」
「えっ」
「……鶫、まさかあなた知らなかったの?」
「だって、そんなこと誰も……」
「そうね、此処が特殊校だなんてこと此処近郊に住む人なら誰だって知ってるもの、ね」
 鶫はぐっと言葉に詰まる。実を言ってしまえば、この高校を滑り止めとはいえ受ける気になったのは、偏に薫子が保健医として働いていること、それだけであったのだから。
 実際、此処がどういう学校なのか知らなかったのは事実だ。
 けれども受ける際、何も忠告してくれなかった父や……それから薫子は酷いと思う。
 そういえば薫子は鶫の志望校を聞いたとき、一瞬目を見開いた後面白そうに目を細めていた。その含んだ笑いの意味を知り、今更ながら鶫の脳裏は悔恨の色に染まった。
「特別なカリキュラムって、具体的には?」
 半ば厭な予感をひしひしと感じつつも恐る恐る尋ねると、薫子は以前と同じように含んだ笑みを浮かべ、そして言葉を紡ぐ。
「週
2回、創作の授業があるの。それから1年生の間は夏休みや冬休みなんかの長期休暇には、原稿用紙100枚程度の中篇小説の執筆仮題があるし」
「げ、原稿用紙
100枚!?」
「あら、普通よ?」
 事も無げに言ってのけた。
「薫子さん、知ってたならどうしてはじめに言ってくれなかったんだよ」
 冗談じゃない。こんな学校だと始めから知っていたならば……。
「だって知っていたなら、鶫は絶対にこの学校は受けてくれなかったでしょう?」
 再び図星を指され、鶫は反射的に顔を赤に染めた。薫子は真顔のまま言葉を続ける。
「私ね、夢だったのよ『息子』と同じ学校に通うの。……馬鹿みたいでしょう? 私は私生児でずっと親子で暮らしたことなんてなかったから、多分人一倍憧れてたのね、『家族』ってものに」
「薫子さん……」
「冗談よ。鶫は何でもすぐに真に受けるんですもの」
 薫子はひとしきり声をあげて笑った後、教卓から離れ立ち上がると着崩した白衣をきっちりと一番上の(ボタン)まで嵌め、鶫を一瞥すると続けた。
「じゃあ、私は職員会議があるから、行くわ。鶫は先に帰ってて頂戴(ちょうだい)
 有無を言わせない、そして揺るがない口調が鶫にはやけに心地よく感じられる。
 窓からは春の穏やかな風が教室内へと流れ込み、カーテンを巻き上げると、薫子の姿を包み込んだ。
 鶫はそのとき不意に、全てを告げてしまいたい衝動に駆られた。
 そして、今ならば全てを伝えられる、そんな気さえした。
 今まで誰にも言わなかった……言うことの出来なかった鶫の心の奥底に巧妙にそして厳重に隠蔽された本心を。
「薫子さん、僕は……」
「ん? どうしたの?」
 風が、止んだ。
 遅咲きの桜の残り香が妙に強く、頭をくらくらとさせる。
 それともこれは、薫子の香水の香りであろうか。
「……ううん、なんでもない。それより、晩御飯は家で?」
「うん。あ、私、鶫特製シチュー食べたいな」
 一度飲み込んだ言葉はそのまま二度と吐露することはできない。
 何事にもタイミングが必要だ。そしてまた会話も然り。
 鶫は無意識のうちに、はじめよりももっともっと奥底にその言葉を大切にしまいこむ。
「わかった、用意しとく」
 そして微笑み、何事もなかったように振舞う。
 鶫は普段温和で人懐こいように見せているが、その実、人に弱みを見せることを何より恐れる完璧主義者であった。たとえどんなに親しい者にさえ本心は決して言わず、自分の手の内を知られることを頑ななまでに拒んだ。あまりに高すぎる自尊心と、人に嫌われることを極端に恐れた結果がこれである。
 薫子はそんな鶫の態度に全て気付いていて、尚且つ何も知らないふりをしているのであろうか。はたまた本当に何も気付いてはいないのだろうか。
 しかし、どちらにしろ薫子は何も言わないだろう。
 鶫が自分から本心を明かそうとしない限り、絶対に。
 事実、薫子は何も言わなかった。
 何も尋ねなかった。
 どんなに親しくなろうと、決して相手の領域(テリトリー)には土足で踏み込んだりはしない。
 そのようにして、
2人の脆く危うい関係はぎりぎりのところで成り立っていた。
 薫子は何も言わず、その場を後にする。
 鶫はため息をつき、
1人、教室へ残った。

□■□■□

 只今、鶫と薫子は2人で暮らしている。
 とはいっても、同棲などという甘ったるいものでは決して無い。それを裏付けるかのように
2人の間には一切の男女の付き合いはなかった。
 薫子は鶫にとって
6人目の母――つまり血の繋がらない継母にあたる。薫子が鶫の法律上の『母』になったのは、つい45ヶ月前のことだ。
 父と彼女の馴れ初めを鶫はよくは知らない。とはいえ、薫子が――聞きもしないのに――教えてくれた言葉を信じるならば、高校時代の現国教師とその教え子であったらしい。薫子にとってみれば、実に
8年越しの恋を成就させたことになるのであろう。
 しかし、父にとってみれば薫子は「
6人目の」妻にすぎない。父は婚姻の儀を済ませてから、驚くほど少ない機会しか薫子と顔を合わせることはなかった。まして息子の鶫ともなれば、尚更である。
 父に対し今更何も期待はしていないが、それにしても父の薫子に対する扱いは冷淡である。今までの「母」の時にはあまり――いや全く感じなかったのだが、薫子のことは可哀想だと思ってしまうのは、恐らく彼女が鶫と暮らすことを自ら希望してくれた始めての「母」であることに所以するのだろう。
 いや、だがしかし、それだけであろうか。
 そう。鶫は薫子に継母であること以上の愛情を注いでいた。
 たとえ、薫子にとって鶫は愛する男の息子(ふぞくひん)でしかなかったとしても。
 薫子はそんな鶫の気持ちを知ってか知らずか、時折非常にあどけない表情を見せる。
 しかし、鶫は不思議と薫子に思いを伝えようだとか関係を結ぼうなどという無粋な気持ちは一度として起こらなかった。
 ただただ、見ているだけでよかった。
 傍にいられるだけでよかった。
 ただ、鶫が薫子を「好きだ」というその気持ちさえあれば、それだけでどんな時でも生きていけるような気すらした。
 そう。鶫にとって薫子は寧ろ生きるための糧に等しかった。
 そしてその感情はなるほど恋愛感情というよりは、実の母に対する思慕や敬愛の念によく似ていた。
 鶫が今の高校を本命の高校と共に志願したのも、薫子が働いていたからというそれだけである。
 しかし、薫子にとって自分はそれほどの存在ではないということを思い知らされたのは、それから僅か数時間後のことだった。

 

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